概要: 他人の否定や批判の大半は、我々の知ったことではないのである
いま、2つのロジックAと¬Aがあるとする。(¬AはAと正反対のロジック)。
このとき、公理系さえ変えれば、どちらの結論A/¬Aも客観的に正しい状態が存在しうる。
つまり、それぞれの公理系の中で正しい主張となりうる公理系が存在しうるのである。
この前提に立った際、世界から見れば、任意のロジックは如何様にも肯定できてしまう。つまり、「あなたのその論理的に尤もらしいロジックは、私の公理系においては正しくない」と言えてしまうのである。他人の否定や批判の「大半」は、我々の知ったことではない。他人に左右され「過ぎる」のをやめれるようになろう
論理的な正しさってなに?
ロジックとはグラウンディング=公理系によって正しさが規定されるものである。
ロジックは「流れ」であると考えればわかりやすい。流れには必ず始点と終点があってしかるべきで、始点=出発点(群)としての公理系、終点=ロジックの結論となる。すなわち、ロジックとは、公理系を唯一の出発点(群)とした記号体系の積み重ねである。一般的な会話や議論、行動原理や言説では、何かしらの共通認識を一種の擬似的な公理系として、論理を積み上げている。
ここで、公理系さえ変えれば、ロジックAとその正反対のロジック¬Aはどちらも客観的に正しい状態が存在しうる。たとえば、ユークリッド幾何では命題「平行線は1本だけ存在する」が正しい。一方で、非ユークリッド幾何(e.g. 双曲幾何)では「平行線は無数に存在する」が正しい。どちらも同時には成り立たないが、それぞれの公理系の中では客観的に正しいといえる。
卑近な例でいえば、功利主義の公理ではA「最大多数の最大幸福を最大化せよ」が正しいが、義務論の公理系では¬Aだって許容される。結論は正反対でも、それぞれの公理系においては論理的に正しい。
このように、公理系さえ変えれば、ロジックAとその正反対のロジック¬A、どちらも客観的に正しい状態が存在しうる。そして、論理的な正しさは、その公理系から矛盾や反論の余地なく導かれた結論に対して与えられるものである。
ヒトは固有の公理系=世界観を持つ
個人ないしはコミュニティの有する各公理は、「何らかの潜在的な目的」を最適化するよう暗黙に選定されている。たとえば、社会ではユークリッド幾何がよく使われれる。これはこの公理系が最も世界にアラインしている=都合よく現実世界を扱いやすいがために、ユークリッド幾何が「選ばれている」と言ってよい。換言すれば、コミュニティは利便性という社会全体の潜在的な目的に導かれるかたちで、ユークリッド幾何を公理系に自然と「選んでいる」のである。
モラルや道徳という公理系も同様である。社会における最大公約数的な公理をモラルや道徳と呼ぶが、つきつめればこれらも、人間社会を持続可能な形で運営するという大目的によって選定されている。つまるところ、各公理は「何らかの潜在的な目的」を最適化するよう、暗黙に選定されている。
個人における公理系とは、いわば「身体性を持った世界観」である。ヒトは集団とは異なり、究極のグラウンディング先として「身体」がある。ヒトの公理系の表面を引き剥がせば、必ず身体に接続している。たとえば、良い成績を出すとドーパミンが出る(という経験を偶然にも多くした)ので、行動原理に成績至上主義が据えられる。不安を感じやすいというアプリオリな身体的性質によって、回避性の消極的な行動原理が選定される、といった具合に。
すなわち、ヒトの公理系は、なんとなく好きだ、嫌いだ、気持ち良い、気持ち悪い、という身体反応としての感情をもとに設計されているものにすぎない。当然、それらはアプリオリなもの(たとえば不安を感じやすいとか)と、個人の経験とその教科学習に基づくアポステリオリなものが混合しており、数年単位で公理系の更新が走っている。
要は、身体性に根ざした潜在目的を最適化するための公理系に基づいて、あらゆる行動と言説が出力され、個人の言動は「その公理系の中で論理的に正しい」のである。
他人に左右される必要はない
上記より、任意の結論は、それに対応する公理系を選べば、いくらでも尤もらしく正当化できる。そして、自分と他人とで公理系が違う以上、客観的に正しく、かつ互いに矛盾する結論が同時に存在すること自体は、何もおかしくない。
つまり、他人の否定や批判の「大半」は、我々の知ったことではない。「あなたのその論理的に尤もらしいロジックは、私の公理系においては正しくない」と言えてしまうのだから。その意見は、そのヒトにとってはそれが最適なのだろうが、俺にとってはそれは最適ではない。ヒトのロジック(意見・行動)に自分が大きく左右されるのは荒唐無稽なのである。
上から目線とパターナリズム
他人に対して「過去のあなたは○○をすると言ってたのに、なぜ○○をしなかったの?」「なんでXXができないの?」と思う場面に遭遇する。上記の前提に立てば、当然である。なぜなら、その行動はその人内部に有する公理系のもとで、99%正しいからだ。裏返して考えれば、我々も他人からそう思われているということである。すなわち、我々の行動原理が他人からは意味不明、ないしは間違いだと認定されるケースが(表面化していないだけで)大量にあるということだ。
公理系の問題は、特に、上下関係・内外関係が生じる場面で問題となる。たとえば、意見が「助言」ではなく「パターナリズム」として作用する瞬間がわかりやすい。パターナリズムは、何らかの上下関係(上から目線)、もしくは内と外が明確に切り離された空間で発生することが多い。パターナリズムとは、要するに、「あなたのためを思って言っている」という形式をとりつつ、相手の公理系を明示的に無視し、自分の公理系を押し付ける行為である。重要なのは、ロジックの正しさが問題なわけではない、という点である。相手の意見は、その人の公理系においては、たしかに論理的に正しい場合がほとんどである。それにもかかわらず不快感が生じるのは、潜在的目的に根づいた公理系が食い違っているからである。
たとえば、「安定した人生を送るべきだ」という助言は、安定性を優先する公理系のもとでは正しい。しかし、何らかの潜在的理由によって刺激(もしくは牧歌性)を最大化したい人間にとっては、それは単なるノイズか、むしろ有害な制約である。
人はしばしば、自分がどの公理系を選定しているかを自覚せず、それを普遍的な「正しさ」だと誤認し、他人にも同じ最適化を要求する。このとき発生するのが、善意の皮をかぶったパターナリズムである。はっきり言えば、他人の助言の大半は、自分の潜在目的とは皆目無関係である。それは相手の公理系のもとでの正解であって、我々の正解ではない。
公理と観測不可能性
昭和的なメンタリティが跋扈した環境だと自分の意見を頭ごなしに否定されることが多い。そういうときによく使われるのが、会話の擬似的な公理に、我々が原理的に観測不可能な上位存在を据える手法である。
たとえば、ある学生の試みに対し、社会人が「社会では…」という苛立つ枕詞で否定意見を述べたとする。このとき、学生は今すぐ社会人(上位存在)になることはできないのだから反論の余地がない。その時点で、論理的な正しさを保証する主導権は、あちら側に握られている。そうなれば最期。その学生はその意見を丸呑みするしかない。
同様な例はいくらでもある。
- 「社会人では〜〜」←学生は今すぐ社会人(上位存在)になることはできないのだから反論できない
- 「プロの研究者では〜〜」←"プロの研究者"(上位存在)というあたかも集合的合意が取れているかのような曖昧模糊な存在に対しては、実体が存在しないのだから反論できない
- 「アメリカの学生は〜〜」← 日本人学生はアメリカの学生群(上位存在)を今すぐに認知することができないのだから反論できない
- 「一流のエンジニアは〜〜」←その組織に一流のエンジニア(上位存在)が存在しない場合、共通認識が取れないので反論できない
こうした方法論は学生を説得するには手っ取り早い方法論なのかもしれないが、真偽がどうであれ、相手をどこまで信頼しているかという信頼の問題に帰着する。すると、妄信的で宗教的な組織が出来上がり、狂信者と懐疑者の二極化が進み、不健全な組織体系が生まれる。
結論
世界から見れば、任意のロジックは如何様にも肯定できてしまう。
つまり、「あなたのその論理的に尤もらしいロジックは、私の公理系においては正しくない」と言えてしまうのである。
他人の否定や批判の「大半」は、我々の知ったことではない。
他人に左右され「過ぎる」のをやめれるようになろう
余談: 議論はなぜ平行線をたどるのか?
「我々の議論やアイデアや考えは、なぜいつもフワフワとしているのか?」
「フワフワとした我々は、何をどう生きていけばよいのか?」
ハイデガーが『存在と時間』で問いの重要性を指摘し、幾遍も問いの厳密化を試みたように、まずは問いの十分性を担保してみたい。
映画を見た若者がSNSで感想を溢す ─ 「泣いた。」
滔々と持論や観察を述べるのではなく、簡単な批評を連ねるのでもなく、ただそれだけの感想しか持たない人々。こうした空疎な人間が世の中には星の数ほどいる。このふわふわとした感想が厄介なのは、これらが極めて原初的かつ強力な身体性に根ざした論であって、他人からの一切の反論を許さない点である。ある人が「あんなもので泣くわけない」と問い詰めても、落涙は事実として存在する。事実がそうなのだから、それを否定することはできない。その強力な反論不可能性が塹壕となり、感想の希薄性に対する他者からの攻撃を引き離す。あるいは人格否定という虚ろな攻撃を誘引する。感情とは決して揺らぐことのない実体(cogito ergo sum)である以上、強い反論不可能性を有する。
一方、若者とは言えない論客同士の議論が平行線を辿ることがある。論客は同じ轍を踏むまいと努め、概ね失敗に終わる。平行線を辿る過程で、激論の舌戦となることもあれば、お互いふわふわとした論を主張することもある。
漸進主義的、あるいは少しでも漸進の性格がある行為においては、実体への接地(grounding)が肝要なのではないか、と最近気が付いた。漸進主義である科学の多くは常に、揺るぎようのない定量的結果=実体に接地し、日々何かを生み出している。コンピュータサイエンスの文脈において、ある決定論的アルゴリズムの定量結果が、東京とピッツバーグとで結果が違う、なんてことはあってはならない。すなわち、漸進主義的行為は常に、確固たる揺るぎない実体への接地を要請するのである。
一方、科学以外の大多数は(あるいは科学の一部も)、実体のない仮設の何かに、見かけ上接地していることが多い。例えば、ビジネスや哲学なんかが良い例である。ビジネスでは、市場心理はこうであると仮説を立て、PoCやMVPによって仮説の立証を試みる。しかし、その市場心理が突如市場自らの手で塗り替えられることも少なくない ─ すなわち、エンドユーザ自体が潜在的な新たなニーズに”自覚”するのである。つまるところ、ビジネスは真の分布が推定不可能な形而上的概念に接地・立脚しているに過ぎない。哲学においても、仮置きの定義に接地していることが多いため、過去の理論は容赦なく薙ぎ倒され、反駁されていく。これは技術的な分解能の限界に起因しない限り、科学ではほとんど発生しない。
議論が、アイデアが、考えが、フワフワしているとき、それは「あなたの考えが何にもgroundingしていない」ことを意味する。数学には公理系がある。公理系があって定理があり、定理があって偉大的発見がある。公理が尤もらしくなければ、あらゆる定理が瓦解する。逆に言うと、あらゆる定理は公理系を起点として論を進める。Groundingとはその行為における公理系を探すことである。
こうして、冒頭に提示した第一の問いは幾分の厳密化が成される。つまり、「我々の議論やアイデアや考えは、なぜいつもフワフワしている=groundingされていないのか?」である。