p32.「能動と受動の区別は、責任を負うために社会が必要とするものだったからだ。」
p41. 「中動態とはかつてのインド=ヨーロッパ語にあまねく存在していた態である」
p34. ヴァンニエスト曰く、もともと「中動態 ─ 能動態」という枠組みがあって、後から「能動態 ─ 受動態」の構図が生まれた
p50. 「ある研究者は、近代英文法の教科書はほとんどトラクスの「テクネー」に沿って書かれていると述べている」
→ 「そうした用語のなかには、「テクネー」がラテン語翻訳された際の誤訳が、そのまま現在に至るまで引き継がれている例すら存在する」
→ ディオニュシオス・トラクスは、紀元前一世紀に活躍した言語学者。「アレクサンドリア学派」としてっ知られている。彼の書いた「文法の技法」(テクネー・グラマティケー)は、現存する最古のギリシア語の文法書。
テクネー
→ 「態は3つある。能動(エネルゲイア)、受動(パトス)、中動(メソテース)である。」
→ アンダーセンはこれに対して、用語の翻訳の問題点を述べている
→ エネルゲイア・パトス は、ラテン語において activum・passivumと訳され、その後、例えば英語において、acctive・passiveへと翻訳された
→ しかしアンダーセンによれば、「エネルゲイア」=「遂行すること」・「パトス」=「経験すること」であると。
→ そもそもギリシア語にあるのは、能動態と中動態の活用のみである。
→ よって、「エネルゲイア」=「能動態」・「パトス」=「中動態」として、メソテースは、それらに当てはまらない例外的なケースだとした。
・中動態が失われた世界では、「能動態 ─ 受動態」の構図の中に「中動態」を当てはめようとしても難しい。
→ むしろ、別のパースペクティブとして「中動態 ─ 能動態」という枠組みから考えなければならない。
→ p88. 「能動と受動の対立においては、「するかされるか」が問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の「外にあるか内にあるか」が問題になる」
→ 「能動」=「主体から発して主体の外で完遂する過程を示す」→ ex. 食べる・飲む
→ 「中動」 → ex. 欲する・畏敬の念を抱く・死ぬ・生まれる
→ 「彼は馬をつなぎから外す」という言葉において中動態が用いられる時、それは「彼自身がその馬に乗ることを含意する」p92
→ 他方、能動態を用いれば、「主語の外で完遂する」=「別の人物が乗る」ことを含意している
p32.「能動と受動の区別は、責任を負うために社会が必要とするものだったからだ。」
→ 「意思」と「選択」の違いは何か
→ たとえばりんごを食べるという選択は、りんごが好きだからかもしれないし、身体がビタミン不足だったかもしれないし、他人の影響によるものかもしれない
→ 「選択」は「過去にあった様々な、そして数え切れぬほどの要素の影響の総合して」現れる(p132)
→ つまり「選択」は「過去からの帰結」としてある
→ では「意志」とは何か
→ 例えばそのりんごが実は食べてはいけない果物であったがゆえに、食べてしまったことの責任が問われねばならなくなったとき。その時、過去からの帰結として存在する**「選択」の開始地点を確定するために呼び出される**のが「意志」の概念。
→ つまり、「意志」は「過去を断ち切るもの」である
・「権力」─ 「暴力」
→ 暴力は「強制し、屈服させ、打ちのめし、破壊し、あらゆる可能性を閉ざす」
→「暴力」は相手の能動性を完全に奪うが、権力はそうではない。権力を行使される者には一定量の能動性が存在する。
→ 権力の問題は、能動/受動の構図から捉えるのではなく、能動/中動 のパースペクティブから捉えなければならない。
→ 「武器で脅されて便所掃除をさせられている者は、それを進んですると同時にイヤイヤさせられてもいる。すなわち、単に行為のプロセスの中にいる。」(p151)
→ 考: 要するに、能動/受動 で考えるよりも、能動/中動 で考えたほうがいいような問題空間が存在するってことだと思う
→ 能動/受動の対立では、うまく対立構造を表現できないことがある
スピノザ
→ ヘブライ語を学びたいという友人たちからの熱心な願いに応えて「ヘブライ語文法綱要」を執筆。
→ もしかしたらスピノザが文法研究そのものに強い関心を抱いていたのかも
「神即自然」
→ 神こそが唯一存在する「実体」である。
→ その実体が様々な形で「変状」することで物体が存在している。
→ 神は「内在原因」である。(ただし、「超越原因ではない」) → 「中動態」の概念 (ヘブライ語との関係)
→ 内在原因はその作用を他ではなく自らに及ぼす。
→ アガンベンが言うには、「内在原因という関係は、それを構成する能動的要素が原因となって第二の要素を引き起こすのではなく、むしろ、それが第二の要素のなかで自らを表現するということを含意してる。」
スピノザ
「感情とはわれわれの身体の活動能力を増大あるいは減少し、促進あるいは阻害する身体の変状、また同時にそうした変状の観念であると解する」(p250)
(ただしここでいう感情とは身体と精神にまたがるものとしての意で、きわめて広い意味合いである)
・何かが人に作用する時、以下に示す2つの段階を経ることになる。
- 外部原因が人間に作用する (能動態としての外部原因)
- 変状の過程が開始する段階 (中動態によって指し示される、様態の自閉的・内向的な過程・自らに影響される変状)
スピノザの「能動」と「受動」は一般のそれとは異なり、作用する・される ではない別の水準を持っている
→ 何かが作用した時の「変状の有様」によって、スピノザが言う「能動」と「受動」とに分類される。
→ 「我々の変状が我々の本質によって説明できるとき、すなわち、我々の変状が我々の本質を十分に表現しているとき、我々は能動である。」
→ 「逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部からの本質を多く表現していることになる。」その場合は受動である。(pp. 256-257)
→ 上にあげた2段階の2番目について考えていくと、「外部からの刺激に応じて変状をもたらす能力」として<変状する能力>というものが存在するはずである。スピノザは、この<変状する能力>を様態の「本質」だと考えた。
→ 「一般に能動と受動は行為の方向として考えられている。」「それに対してスピノザは、能動と受動を方向ではなく質の差として考えた。」
→ 考: このような捉え方をすれば、一般に考えられている能動/受動という枠組みをそのまま継承した上で、拡張した形としてアップグレードできている?
・「共通基語の使い手がどこに住んでいたかをここまではっきりと推測できるがなぜかというと、共通基語には「海」を表す単語がなかったと考えられるから」p166
→ というのも、「インド・ヨーロッパ諸語において、「海」を意味する単語がバラバラだからである。」
・ハーマン・メルヴィル「ビリー・バッド」
→ 「スピノザはねたみの感情を解説して、何人も自分と同等でないものはねたみはしないといっている。(エチカ 第三部定理55系)」
→ 「「この人は私と違う」「この人は私よりも、もともとすぐれている」と思う人物のことを人はねたんだりしない」
p274
「世の中には数え切れないほどの問題がある。問題に出会った時、様々な人が様々な反応をする。私はあるとき、ある対談で示された諸問題に出会った。私は哲学という分野に携わる者であるから、そのような者として、それらにどう反応するべきか、何ができるかと考えた。」
「哲学は概念を扱う。哲学は漠然と心理を追求しているのではない。直面した問題に応答すべく概念を創造する ─ それが哲学の営みである。哲学にできるのはそのようなことであり、そのようなことでしかない。だから私は自分が出会った問題に応答するべく、中動態の概念に取り組んだ。」 p330あとがき