・特に後編は非常に面白かった
・池田は語学に天賦の才があった
→ 英語もドイツ語も堪能であったらしい
・「オストワルド法」で有名なオストワルド研究室に一年半留学
→ 師であるオストワルドの影響がある
→ 日本は化学的に遅れていた一方、ドイツでは化学の応用による工学の向上が目まぐるしかった
→ 硫酸製造の新方法の開発に従事していたオストワルドは、これが完成した1906年に大学を辞する。
→ こうしたオストワルドの生活設計の方向転にならい、応用への転回を決めたと考えても不自然ではない。
・漱石と池田がロンドンで同宿していたのは有名な話
→ 漱石の朝日新聞への入社が、池田菊苗の転機であると語る。
・1907年4月、漱石は学界をさり東京朝日新聞に入社した。
そして5月3日に入社の辞が同誌にて公表される。
「新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。(…) 新聞が商売である如く大学も商売である。新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。只個人として営業しているのと、御上で御営業になるのとの差丈けである。」
→ 当時は尊敬に値するような高潔な存在とされた「大学教授」と商人を同一視している
→ なぜこうした転身を実行したのか、その理由は
「子供が多くて、家賃が高くて八百円(俺釈: 大学時の年俸)では到底暮らせない。仕方がないから他に二、三軒の学校を駆あるいて、暫く其日を送つて居た。」
→ これに池田は精神的ショックを受けたとされる
→ 池田の年俸は漱石の2倍程度とやや恵まれていたと推測されるが、漱石同様に家族が多く、また借財も多くあったという。また、家計が苦しくても、多忙のために漱石のように講義をかけもつ時間的余裕がなかったのである。
→ よって、純化学をやっていた池田は、ドイツ人科学者のように、化学の応用方面へと転向し、家計困難の打開を目指したと推測される。
→ 実際に、亀高徳平への寄稿文である「味の素発明の動機」と題した文章では以下のように語る
「今日に於てこそ純正化学と其の応用との関係は鞘々世人に理解せらるるに至りたれとも二十年三十年前に在ては純正化学は数学、星学などと同じく工業とは顔る縁遠きものと一般に認められ居たり。此の事実は純正化学を修めたる大学卒業者の就職と密接の関係を有し当時の卒業者は大学高等工業学校、高等学校等の教職を除きては殆んど就職の途なき有様を呈せり。唯当時卒業者の数少く而して新設せらるる学校の数多かりしを以て現今の如く就職難を訴ふることなかりしと難も其の前途に於ける活動分野の狭隘なりしことは余が常に憂慮したる所にして余は機会あらば自から応用方面に於て成績を挙げ純正化学者が工業上より見て無用の長物に非ざることを例示せんと窃に企図し居たり。」
→考: ここらへんは、ラリー・ペイジがニコラ・テスラの伝記に涙し、「アイデア」はそれ単体では不十分であり、実際はそれを広める方法とセットに必要であると悟った、という話を想起させる。
https://www.youtube.com/watch?v=YNGZu3WGstw&ab_channel=GoogleZeitgeist
→ ただ池田は自身の還暦祝賀会の謝辞にて、「自分は大学の教授として純粋の学問の研究に専念し、その方面に業績を上げるべき位置にありながら、怠ったのは遺憾に思う。」「理科の教職にあるものは金儲けを第一にするような研究をなさらないようおすすめ致します。」とも残しており、純正化学への遺恨が垣間見れる。
旨味の成分はグルタミン酸ではなく、グルタミン酸イオンである
→ もともとはリットハウゼンがL-グルタミン酸を発見しており、それを肉エキスと同じ味がすると報告している
→ だがこれは誤りで、実際はフィッシャーが述べたように、グルタミン酸は特有のまずい味と弱酸味がある
→ リットハウゼンがうまいと感じたのは、不純であった故に、L-グルタミン酸イオンが塩に混じっていたのではないかと推測される
→ ちなみに、フィッシャの研究室では、ホルミルバリンのD型L型の両異性体を分割したが、これらの味が異なることを、フィッシャーが少し前に報告している。
→ 多分このフィッシャーは「フィッシャー投影式」のフィッシャーさん?