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「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」

 ·  ☕ 4 min read

p132-134
村上: ただ、ぼくが「ねじまき鳥クロニクル」に関
して感ずるのは、何がどういう意味を持っているの
かということが、自分でもまったくわからないとい
うことなのです。これまで書いてきたどの小説にも
まして、わからない。

たとえば、「世界の終りとハードボイルド・ワン
ダーランド」は、かなり同じような手法で書いたも
のではあるのですが、ある程度、自分ではどういう
ことかということは、つかめていたような気がする
のです。

今回ばかりは、自分でも何がなんだかよくわから
ないのです。たとえば、どうしてこういう行動が出
てくるのか、それがどういう意味を持っているのか
それははくにとっては大きいことだったし、それだけ
に、エネルギーを使わざるをえなかったということ
だと思うのです。

河合: 芸術作品というのは、絶対にそういうところ
があるだろうとほくは思います。そうでなかったら
おもしろくないのではないでしょうか。作者が全部
わかってつくっているのは、それは芸術じゃないで
すね。推理小説とかそういうのはカチッと仕掛けが
できているわけですが、そうではなくて、芸術作品
になってくると、作者のわからないことがいっぱい
入っていて当然だと思います。
ただ、こうだということはわかるんですね。こう
でなければならないという意味みたいなものを考え
ていたら、絶対にできないと思います。

村上: もちろん、終わってからほかの人が読んだり、
批評家が読んだりするのと同じレベルでテキストと
して読んで、自分で考えることは可能なんですね。
ただ、いちばん困るのは、ぼくが一人の読者として
テキストを読んで意見を発表すると、それが作者の
意見としてとらえられることなんですね。
河合 作者の言っているのがいちばん正しいと、思
う人がいるということですね。そんなばかなことは
ないのですよ。

こうしたことを言う小説家は結構いる。例えば安部公房も同じように、作者の説明すらも一つの「解釈」であるのだという。

https://www.youtube.com/watch?v=QN68K4CZIOE&t=5s&ab_channel=1AD5X

三島由紀夫も、「文学,殊に私の携はる小説や戯曲の制作上, その技術的な側面で,刑事訴訟法は好個のお手本であるやうに思はれた。何故 なら,刑訴における『証拠』を小説や戯曲における『主題』と置きかへさへ すれば,極言すれば,あとは技術的に全く同一であるべきだと思はれた 」

「刑事訴訟法は手続法であって,刑事訴訟の手続を ひどく論理的に厳密に
組み立てたものである。それは何の手続かといふと「証拠追究の手続」である。 裁判が確定するまでは,被告はまだ犯人ではなく,容疑者にとどまる。その容 疑をとことんまで、追ひつめ しかも公平に審理してのつぴきならぬ証拠を追 究して,つひに犯人に仕立てあげるわけである。
小説の場合は,この「証拠」を「主題」に置きかへれば,あとは全く同じだ と私は考へた。 小説の主題といふのは書き出す前も,書いてゐる間も,実は 作者にはよくわかってゐない。主題は意図とは別であって,意図ならば,書き 出す前にも,作者は得々としゃべることができる。そして意図どほりにならな くても傑作ができることがあり,意図どほりになっても意図だふれの失敗作になることがある。 主題はちがふ。主題はまづ仮定(容疑)から出発し,その正否は全く明らか
でない。そしてこれを論理的に追ひつめ,追ひつめしてゆけば,最後に,主題 がポカリと現前するのである。そこで作品といふものは完全に完結し,ちゃん とした主題をそなえた完成品として存在するにいたる。つまり犯人が出来上が
るのである。」 (三島由紀夫全集第30巻 評 論 (6)(新潮社, 1975)181ページ。)

そして、「はじめから主題が作家にわかってゐる小説は,推理小説であっ て,私が推理小説に何ら興味を抱かないのはこの理由による。外見に反して, 推理小説は,刑事訴訟法的方法論からもっとも遠いジャンルの小説」
と言った。

ロラン・バルト「作者の死」を想起させる

ただ、村上春樹の長編はシュルレアリストの自動記述に共通する部分が大きいように見える。
よって、上に書いたような作家とはややベクトルが異なるように思える。

→ これは「美味しい牡蠣フライの食べ方」を想起させる
→ 自分の深層心理が物語を産み落とし、その物語=カキフライの作り方が間接的に作家の深層心理を提示するのである。

ただ、

「僕の短編には前に書いた長編の後産的な要素と、次の長編の胎動的な部分が含まれていると思う。(…)僕が後産的というのは、長編を書いているときにはできなかったことを短編でやっているということであり、胎動的というのは、次の長編につながる素材や手法をちょっとずつ試しているということ」(「村上春樹全作品」の「自作を語る」より)

と本人は語っている通り、短編はかなり技巧的に作られているような印象を受ける。

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YuWd (Yuiga Wada)
著者
YuWd (Yuiga Wada)
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