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凡人理系学部生の我々は何をすべきなのか

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はじめに

プログラムを書くことと小説を執筆することは似ている. けれども, 滔々と流れゆく記号列を操作するという相似形の作用線において, 両者には決定的に異なる特性が一つある ─ それは, プログラムにおいては疎結合が好まれ, 小説においては密結合が好まれるという点である. すなわち, 小説において肝要なのは「誤配」や意図せぬ「混線」であって, 綺麗な小説ほどつまらぬものはないのである.

そしてそれは, 「戦略」の乗っかった「生活」という名の一種の神話・ストーリーにおいても同様である. (後から振り返ってみて)綺麗すぎる生活戦略というのは, 実に下らぬ観念だ. 何もかもをプログラムと同等に捉える輩は, 何かを履き違えている.

我々は誤配を十分に含みうる生活戦略を組立てねばならないというのが第一の論点であり主張だ. しかし, 私はただ複雑性の度合いを高めれば良いという稚拙な愚論へと導きたいわけではない. そうではなく, 私はこの学部4年間を通して, 計画し, 実践し, 実感した生活戦略に対する実にミニマムな仮説がある.

結論から話そう. つまるところ, 「凡人理系学部生の我々は何に力を注ぐべきなのか」という問いに対する私の一回答はこうだ.

「君の考えを要求される"糞つまらん感想文レポート"に全力を注げ」

問いの整理

本題に入る前に, 「問い」の整理をしておこう.

ハイデガーは著書『存在と時間』において「存在」とは何かを論じる際, 「問い」の優位性を示すところから論を進めた. 彼の主張はこうだ. 「問い」は「答え」を方向づける. 稚拙な問いには幼稚な解答しか存在できないように, 「問い」には「回答」に対する優位性がある. したがって, まずは完璧な「問い」を仕上げるところから始めなければならないと彼は言うのである. (そこから彼は「存在への問い」の形式的構造を明らかにし, 『「存在とは何か?」という問い』を整理することだけに何頁も費やす.)

よって, 我々も人生の大先輩であるハイデガー先生に則って, 一応簡単ながらも問いの整理をしておこう.

我々の手元にある問いの原石はこうである ─ 「凡人理系学部生の我々は何をすべきなのか」. これが議題でありこの記事のタイトルだ.

  • なぜ理系学部生に限るのか. それは, 今から私が連ねる主義主張が, 文系学生にとっては彼らの専門分野・得意分野であって, 当たり前のことである(と私は思っている)からである.

  • なぜ学部生か. それは, 私が現在B4であること, それからM1以上にはこの記事の主張を実践する機会があまりに乏しいと推測するからである.

  • なぜ"凡人"が対象なのか. それは, 地方出身で大した文化資本もなく地頭の悪い"凡人"の私が体験の元となっている以上, 外せぬキーワードであるし, そもそも本記事の主張は, 地頭の良い人間ならば自然とやっていることに過ぎないからである.

  • また, この問いのスコープを明記しておく必要がある. 本記事が対象としている領域は, 学問領域ならびに知的領域である. それ以外の領域, 例えば人生であったり,
    社会であったり, 恋愛であったり, そうした営利や遊戯, 性に関しては取り扱わない.

  • さらに, 私の主張は主専門を"そうしろ"といった類の話ではない.

したがって, 問いは次のように精密化することができる. すなわち,

  • 「凡人理系学部生の我々は学問において何を副軸とすべきか」
  • 「凡人理系学部生が学問を行う上で二番目に重要なことは何なのか」

である.

もう1hop分問いを進めよう. 方向性を誤らぬための重要な要素がある. それは「誤配」というキーワードだ. 上述の通り, 「誤配」を徹底的に排除した, 実にプログラム的な潔癖症の戦略は塵屑に等しいという認識がこの記事における大前提である. (この認識については後ほど説明する)

したがって, 最終的な問いは以下のようになる.

  • 「凡人理系学部生が誤配に満ちた知的行為を行う上で主専門の次に重要なことは何なのか」

束縛条件について

この問いへの素直な解答は実に容易い. というのも, ただ生活における複雑性の度合いを上げれば済むだけの話だからだ. しかし, 私が上で述べたように, これは稚拙で愚鈍な論理である. 本来, すべての問いには隠れた束縛条件が存在するはずだ.

無意識にみなが共有している潜在的な束縛条件は, 「如何に効率良く誤配を含ませうるか」という点であるように思う. すなわち, この問いは一種の最適化問題であり, 我々は効率性という物差しを問いに担がせる必要がある.

また, 「誤配」についても隠れた条件がある. 「誤配」といえば, おそらくみな, 誤配の接続対象と主専門との距離の遠近が気になるところであろう. つまり「誤配」の射程についても議論の余地がある. とはいえ, 射程は個人の好みや主義主張, それからプラクティカルな問題が絡むため, 個人の志向に任せるしかないように見える. したがって, 本記事では「誤配」の射程については取り扱わない. (私個人的には, 遠近問わず貪欲に誤配を含ませうるよう戦略を設計するのが良いと思う.)

誤配・記号・思考

ところで, 先程から「誤配」という語を連呼しているが, なぜ「誤配」が必要なのだろうか. そのことを考えるためには, 「思考」とは何かということを理解する必要がある. あるときは我々を踊らせ, あるときは我々を苦悩させる「思考」とは, 端的に言えば何らかの記号体系による概念操作である. 記号というのは大抵なんでも良い. 視覚的なものであれ, 音素的なものであれ, 心理に展開されるものであれ, なんであれだ. (記号論においてパースがSmiosisと呼ぶものをイメージすれば良い. 顕在性の強いシニフィアン↔シニフィエの無数の連鎖作用とでもいえば良いのだろうか. Smiosis自体の真偽はともかく, 各個人の持つ「心理的視覚性を持てる」記号操作のことだ. )

凡人理系学部生が誤配に満ちた知的行為を行う上で主専門の次に重要なことは何なのか

記号を操作することが「思考」の正体である. しかし, この一見当たり前に見える構造体系は, 日常生活においては無意識という名の半透膜によって覆われているのである. そして「誤配」の力点はここにある. すなわち「誤配」によって, 我々が自分の主専門でない「得体のしれぬ思考対象」と遭遇したとき初めて, 我々の意識はその半透膜を引き剥がし, 思考は正体を露呈するのである. したがって, 「誤配」は明示的な記号操作を促す作用を持つものであり, それゆえ私は「誤配」が有用であると主張するのである.

ということで, 「誤配」の持つ意味と作用, それから問いに潜む束縛条件が俎上に揃った. 最後にこれらを調理して, 本議論を終わりにしたいと思う.

上で述べた議論を先程の問いに組み込み, 軌道の補正を掛けると次のようになる.

  • 『自分の主専門ではない「得体のしれぬ思考対象」と如何に効率よく遭遇できるか』

答えは明白だ. 「君の考えを要求される"糞つまらん感想文レポート"に全力を注げ」ば良いのである.

「君の考えが要求される系レポート」は実につまらぬ「お遊戯」的なものばかりであるから手数が多く, またわりかし自分の主専門とは似ても似つかぬものがテーマであることが多いため, 実に効率的であり, 最良の対象なのである.

君は「君の考えを要求される系のレポート」を真面目に何時間も掛けてやったことがあるか?(慶応理工なら, 理工学概論や, 情報工学特別講義, 通信ネットワーク工学や, 理工学基礎実験, それから一般教養の類) 直近の話でいうと, 私は情報工学特別講義に毎回6,7時間程度費やしていた.

我々は自らの主専門ではない「得体のしれぬ思考対象」と対峙し, 真っ暗で手元の見えぬ知的領域へと投げ込まれ, そこで必死にもがき苦しみ戦い抜かねばならないのである. 成績などはどうでもよい. (現に私も哲学等, Aを頂いた教科もある) 大事なのは, 何かをひねり出そうという意思と意識の作用なのである.

そうした意識の作用の累積が大きな錐となって, 思考体系を覆う大きな半透膜を穿ち, 明示的な記号操作を司る重要な裂け目となると私は信じている.

(補足) 主専門について

タイトルから主専門に関する記事だと勘違いされた方がいるかもしれないので, 一応主専門についても触れておく.

結局の所, 主専門については, 好きなことをやれば良いと思う. 勉学に励むのも結構. インターンに行くのも結構. 何かの開発に励むのも結構だ. 重要なのは, やはり, 自分の能力と実績の不足に一抹の不安を抱え, 必死にもがき苦しみ, 投げ込まれた負の円環の中で日々少しずつ邁進してゆくことだと思う.

(あまり興味がないかもしれないが)私がB1からB3までに掛けて主専門=情報工学について行ったことはhttps://yuiga.dev に羅列してある.

また, 私が学部一年のときに何をしたのかについては, 以下のページに記載してある.

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YuWd (Yuiga Wada)
著者
YuWd (Yuiga Wada)
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