「文学辞典」みたいな感じだった
p18.
「余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短かきにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学もまたかくの如きものなるべし、かくの如きものならば生涯を挙げてこれを学ぶもあながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せぎる英文学科に入りたるは、全くこの幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。」
「卒業せる余の脳裏には何と無く英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。」
p19.
「翻つて思ふに余は漢籍においてさほど根底ある学力あるにあらず、しかも余は充分これを味ひ得るものと自信す。余が英語における知識は無論深しといべからざるも、漢籍におけるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかくまでに岐かるるは両者の性質のそれほどに異なるがためならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所調文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざるべからず」
→ 漢学と英文学の文学性の違いが、文学論を研究・執筆する動機になっている。
p31.s
凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。
Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに付着する情緒を意味す。
されば上述の公式は印象又は観念の二方面即ち認識的要素Fと情緒的要素fとの結合を示したるものと云ひ得べし。
→ 認識的要素Fは「印象」と「観念」という対立した概念を包摂する概念として定義される。
p142.
「先づ人に伴ふて活動する実劇と、活人より切り離されたる人事上の議論と、何れが吾人の心に触るること強大なるかは論ずるを待たず、千百の恋愛論は遂に若き男女の交す一暫の一剰那を叙したる小説の一頁に及ばざること明かなり。世に一美婦に悩殺せられ、苦悶の極、自殺を計るは珍しからねど、「愛」なる抽象的性質を熟考して狂へるものは古往今来未だ聞かざるところなり。親のために川竹に身を沈め、君侯の馬前に命をすつるはさまで難きことにされども身を以て国に殉ずといふに至りてはその真意甚だ疑はし。国はその具体の度において個人に劣ること遠し。これに一身を献ずるは余りに漠然たり。抽象の性賀に一命を賭するは容易のことにあらず。もしありとせば独相撲に打ち殺さるると一般なり。故に所謂かく称する人々はその実この抽象的情緒に死するにあらず、その裏面に必ず躍如たる具体的目的物を樹立しこれに向って進み居るものとす。」
p143.
「故にfはFの具体の度に正比例するなる事実は依然として事実なりとす。」
→ PopeのSappho to Phaonを例に取り、「毫も絵画の分子無く、色彩を描く」ものが「如何に無味乾燥」であるかを例示した。