メモ: この本は読みにくかった。文章は平易で一つひとつの論理は明確なのに、本全体で見たときの論理の流れは矛盾をはらむような危うさをもっており、真意を掴むのが難しい。これは、私の個人的な解釈を踏まえた書評である。個人的にはこれは
**「芸術作品の受容構造と、そこから導き出される芸術の本質」**に関する本なんだと思う。
p24-25. なぜ、これまで、日本人アーティストは、片手で数えるほどしか世界で通用しなかったのでしょうか。単純です。「欧米の芸術の世界のルールをふまえていなかったから」なのです。欧米の芸術の世界は、確固たる不文律が存在しており、ガチガチに整備されております。そのルールに沿わない作品は「評価の対象外」となり、芸術とは受け止められません。ぼくは欧米のアーティストと互角に勝負するために、欧米のアートの構造をしつこく分析しました。仮説と検証の連続から芸術制作マネジメントの技術も磨いてきました。アートピースとは、作り方や売り方や伝え方を知らなければ生み出せないものなのです。
・芸術には時間と金がいる
→ p28. 日本の美術大学は生計を立てる方法は教えてくれません。美術雑誌にも生き残る方法は掲載されていません。なぜか?
→ p29. 美術雑誌の最近十数年の最大のクライアントは美術大学受験予備校、そして美術系の学校です。
→ 大学や専門学校や予備校という「学校」が、美術雑誌を支えているのです。
→ そうした閉じたループの中で、「芸術の目的は作品の換金だ」と教えることができないのは当然。
→ これが日本の美術の主流構造
→ 「世界も評価を受けなくても全員がだらだらと生き延びてゆけるニセモノの理想空間では、実力がなくても死ぬまで安全に「自称芸術家」でいられるのです」
→ 大学教授も同じ。「大学機構に守られている表現者が夢を語っての、それは本当に夢でしかありえませんから」
→ 東浩紀の大学人批判(オルタナが必要だといいつつ、大学に身を匿い、何もせず傍観するやつら)にもつながる
・日本では主に好き嫌いの印象論による受容が多い
→ 西洋での芸術のルール = 知的な「しくみ」や「仕掛け」を楽しむ
→ p117. 「「欧米の美術史の文脈に絡めた洗練された商品」としての芸術こそが欧米では尊重されている」
→ 「受容理論」の能動的実践
→ 受容者 (=顧客)がいて初めて芸術は成り立つ
→ 受容構造の理解が作品制作の根底にある
→ 批評空間の受容というよりは一般人からの受容?
→
おそらく
西洋: 批評空間による芸術の批評 → 金持ちが批評を見る → 金持ちが買う
日本: 金持ちが絵を見る → 好き / 嫌いで絵を判別する → 金持ちが買う
→ 印象論が跋扈する日本では、こうした知的な受容構造が存在しないが故に、芸術が没落している
→ p153. 「海外で、いくらぼくの作品が騒がれても、日本の報道ではその実情が伝わりません。これは美術評論が美術評論として機能していない表れだと思うのです。」
・西洋の需要構造の本質は「如何に作品に価値が生まれるか」にあり、それは「価格」と作品の「商品性」へとつながる。
→ 「受容の動機」=「価値」=「価格」+「商業性」+「時代性」
→ 決して、「価値」が自己満であってはいけない。正当な評価があってはじめて「価値」となる。
→ そして、その評価を得るためには、受容構造へ理解が必要である。そして、「伝えようとする」ことが大事である。
→ 歴史文脈への理解・思想・商業性が必要である
まとめ考:
→ 芸術 = 文脈を美術史に残さなければ意味がない → 芸術の価値は時代性により湧出する。
→ そのためには、受容構造を理解しなければならないし、受容構造を突き詰めれば、それは正当な評価が下されるよう、西洋のルールの元で、アイデンティティと個人の業と、美術史の文脈を絡めながら、芸術史における新規性を発想し、さらにそれを伝えようと努めなければならないということになる。制作は決して自己満足的で閉鎖的なキザの勘違いであってはならないのである。そして、受容側により下された「価値」の表れとして、マネーが発生し、それがさらなる制作を刺激する。逆に、マネーが発生しないようなものは、ゴッホのように、生きている間には、芸術史における文脈を作ることができないのである。
→ あとがき p243.
「「コミュニケーション」の本質に迫っていくに至る厳然とした「壁」を発見したのです。人種、環境に由来する同じに見える「人」という種族の、どうしようもない理解できうる限界点。それをあたかも突破可能に見える「マネー」という共通言語的なるコミュニケーションツール。つまり「マネー」の理解でき得ぬ「壁」は、芸術内のドメスティックな問題よりも遥かに本質的で、解決不可能状態なる「人」の業であり、その部分との接触点の検索なしでは現代の芸術たり得ないという道筋を発見してしまったのです。芸術は、アートは、「マネー」との関係なくしては進めない。一瞬たりとも生きながらえない。なぜならば、芸術は人の業の最深部であり核心であるからなのです。しかし、日本ではその事実を突きつけた瞬間、浪花節のこぶしの力で!気合いで!「金に汚い人間は古来より尊ばれている武士道に反する!」と目くじらを立てられることも、これまた事実。(…) 人を超えていこうとする芸術は、超えるが故に超人的なる行為の集積が必然であり、そのモチペーション、環境をケアし続けるには「マネー」は〈なくてよいもの〉ではないのです。時間も心も兌換できうるに足るきっかけの一つとして、蔑んではいけないツールなのです。」
→ 時代性とは、例えば西洋でいうと、「西洋美術史の文脈における作品の位置づけ」
→ p42. 「ウォーホルを真似する人は大勢いましたが、芸術政策の技術の格差は歴然としていました。「西洋美術史での文脈を作成する技術」が圧倒的に違うのです。」
→ 毛沢東の肖像画でスキャンダルを誘ったり、絵画作品の表面をわざといいかげんなテイストにしたり
→ 「操作できる範囲の外」さえも、まるで作品が演出しているかのようにしむけるのがウォーホルの技術なのです。
→ p79. 美術の世界の価値は、「その作品から、歴史が展開するかどうか」で決まります。
→ p80. 「欧米美術史のルールを壊し、なおかつ再構築するに足る追加ルールを構築できている」
→ 「欧米芸術のルールを読み解くことに集中したデュシャンのすごさは、「芸術は美しいものである」とだけ考えてる人にはわからないし、難しいものだったのです。ウォーホルにしても、キャンベルの缶を描いただけでなぜ芸術作品になりえたのかは、ルールの理解と再解釈に長けていたからなのです。」
・ スーパーフラット
→ 「日本のサブカル的な芸術の文脈をルール内で構築し直し、認めさせる。」
→ p113. 「ぼくは自分の道のりを三段階で捉えていました。まずは芸術の本場の大幣で認められる。そのためには、本場のニーズに合わせて作品を変えることもいとわない。次に欧米の権威を笠にきて日本人の好みに合わせた作品を逆輸入する。そしてもう一度、芸術の本場に、自分の本来の持ち味を理解してもらえるように伝える。」
→ 「スーパーフラット展でアメリカに認められ、日本で作品を展開し、リトルボーイ展で自分の思うリアリティを表現する。」
p140. 「作品を意味づけるために芸術の世界でやることは、決まっています。」
→ 「世界で唯一の自分を発見し、その核心を歴史と相対化させつつ、発表すること」
考: 「My Lonesome Cowboy」を批判するなら、批判対象は村上隆や彼の作品そのものではなく、その需要構造自体を批判すべきだろう。もっと詳しく言うなれば、現代美術そのものをを批判すべきではないか。
・戦後の日本の美術界について / 歴史を知ること
→ p158-159. 「文脈の歴史のひきだしを開けたり閉めたりすることが、価値や流行を生み出します。ひきだしをしらないまま自由自在に何かができるということは錯覚や誤解に過ぎません。そして、ひきだしを知らずに何かをやるという不可能なことに挑戦し続けてきたのが戦後の日本の美術界だったのだと思うのです。ひきだしを知らずに作られた芸術作品は、「個人のものすごく小さな体験をもとにした、おもしろくもなんとも無いちっちゃい経験則のドラマ」にしかなりえません。」
p179. 「客観的に歴史化してくれるということこそが芸術には重要なことなのです。芸術というのはそういう意味ではじぶんの力だけで作るものではありません。美術の文脈や歴史とつながりながら作られるものが芸術なのですから。」